なぜ、マッサージ信仰は無くならないのか? 5 [日記]

最近、週一回ぐらいで往診を再開している患者さんがいる。

やっぱりというか、とうとう起きられなくなってしまったようです。

他の施術者の事は詳しく知りませんが、僕の場合は「往診の必要性が無いように、自立するために往診している」と言ったところかもしれません。

寝たきりになってしまった人は、もう二度と、一人で外出できないのでしょうか?

そんな事は無い、そう思って往診しています。

寝たきりで残りの生涯を過ごす、という風には考えていません。

もちろん、患者さんの状態によりけりですので、無理な事もあるかもしれません。



「調子がちょっと良くなって、しばらく様子見てみるわ~」と言って、患者さんの意志で中断することもあります。

それは、往診してもらう事に多少の申し訳なさを含んでいるからかもしれませんし、それ以外の理由があるかもしれません。

途中で治療を止めてしまうのは、推奨しませんが、それも個人の自由だと思っています。

良くなって悪くなっての繰り返し、実はそれが一番儲かります。

「慢性やからな~」と言い包めてしまえば、もっと効果的!



ある患者さんは、こう言います。

「あの先生は治しきらんな、その方が儲かるからやろ」…と。

そんな事はありません。

皆、良くなってもらいたいと尽力しています。

と、信じたいところです。



起き上がれなくなってしまった患者さん。

つい最近まで、近所の○○治療院に通っていました。

週に2~3回という、普段の様子からは計り知れない脅威的な体力でそれをやってのけました。

外に出たい、自分の足で歩きたい、そういう気持ちは切なくなるほど感じます。

もちろん一人では歩けないので、介助者が引率します。

その患者さんが、それほどまでに陶酔する治療院とは、一体どんなところなのか…それは、分かりません。

ただ良くなって、しばらく僕が往診から外れると、そこへ行っていますが(要するに元気にはなっている訳です)、往診依頼がある頃には、宜しくない状態に陥ってます。

外出による体力の消耗なのか(でも、そもそも歩くという事は必要です)、その治療院での施術に問題があるのかは分かりません。

印象としては、何をやっているのかサッパリ理解できないので、やっぱり施術自体の効果が無い、そう推測します。



話が少し飛びますが、「気」という概念。

僕自身、はっりき把握できる訳ではありませんが、そういうモノは確かに存在する、そういう立場にいます。

気のせいとか、そういう曖昧なものではなく、生体に対して何らかの影響(良くも悪くも)を及ぼす事がある。

良くも悪くも出来るという事は、それだけの効果がある、そういうスタンスです。

但し、悪くなるという事が、手遅れを助長しているという意味ではありません。

本当は、鍼という代物だけで、気を操作し治療したいと思っていますが、今の僕には到底無理です。

強いていうなら、鍼や気というモノを、十分に扱えるだけのスキルがありません。

だから、他の手段に頼ります。

それが運動療法だったり、その他だったり。

本来ならば、鍼の一手で、今施術中の多くの疾患は治療できる、そう思っています。

ただ、出来ないというだけ、今は。



そう言う前置きがあっての話、その患者さん曰く、その治療院の先生は、「気の調整」をするそうです。

言葉の綾とでも言うのか、そういう患者さんがちょっと知っていて、実際はよく分からない言葉を使うのが、これ程までに効果的だとは。

意地悪だとは思いましたが、こう聞きました。

「気の調整で、その肩凝りは治らないの?」

言葉に詰まっていたようですが、それが真実です。

つまり患者さん自身も、解らない振りをすることで、自分の病気に対して目を覆っていたという事。

真実を見つめずに、虚構の世界で成立した状態は、現実とは異なっても、それが虚ろな現実となる。



その患者さんにとっては、その先生も心の拠り所です。

しかし、その「気の調整」という理屈では、治る見込みは無いと思っています。

「気」を否定する訳ではなく、その方法論が今の状態には合っていないという事。

戻ってきた患者さんの状態を拝見すると、ボロボロとは言わないまでも、手付かずの状態が満載。

という見立てをするのは僕自身の考え方であって、僕の施術した患者さんを、他の施術者が診れば、同じような感想を抱くかもしれませんけどね。



そして、今、僕はその依り代を崩壊させようと目論んでいます。

もちろん、他の依り代も必要ですが、それは僕ではありません。

患者さん自身です。



僕が鍼治療を終えて、しばらく談話していた時、その患者さんはこう言いました。

「マッサージ屋さんとかでやってもらうアレって、やってみたらどうかな~?効くかな~?」

つまりは、どうしても、それを所望しているようです。

僕としてはちょっと寂しい気持ちもありますが、患者さんがそう言うのであれば、やはりそこが治療の拠点となる訳です。

可能な限り、患者さんの立場も考慮して提案します。

「マッサージ屋さんでやってもらうような事は、希望があった時はたまにやってるよ」

(え?!そうなん?)という表情が一瞬。

「ただ、お金貰ってないだけ」

(つまり、患者さんにしてみれば、お金を払っていないので、やってもらってないと感じていたのかな?)

実際の手技の内容も違うかもしれないし、患者さんのイメージと違うのかもしれない。

ただ、マッサージの上手い下手だけなら、他の誰にも負ける気はしないので、そこは断言します。

「じゃあ、お金払うからやってよ!」

僕は、こう返します。

「もし、その希望するマッサージだけを自費で続けるとなると、治らないばかりか、どんどん費用が膨らんで、たぶん生活が苦しくなると思うよ。気持ちは良いかもしれないけどね。仮に毎日マッサージを続けて疲労回復したとしても、それが限界だと思う。前みたいに歩けるようにはなれない。」

知った風な口ぶりで、お節介、高圧的な態度。



お金を払ってでも、やって欲しいという事は、断るのが非常に難しいです。

断らなければ僕の稼ぎは増えるし、保険鍼灸の安すぎる料金設定ともサヨナラできますからね。

(安いって書くと、お医者さんや他の医療従事者から非難されそうですが、やっぱり安いです。)

しかも、患者さんがやって欲しいと言っているのだから、ニーズに応えている事になる。

ただね、お金を払っても、患者さんの得られるモノの程度は知れている。

それを僕に決める権利があるかどうかと言えば、僕が断る分にはあると思います。

国家資格を持つということは、そういう事だと思っています。

やらないと断固拒否するつもりはありませんが、お金は頂き難い。

ただ、他の商業施設でそれを受けるという事に関しては、あまり干渉しない方がいいかもしれない。

しかし、見過ごせる範囲と、そうでない範囲がある。



人を癒してあげたい、何とかしてあげたい、そういう気持ちは必要ですが、それが医療と経済の間では、偽善者になることもある。

何も知らない人が、気持ちだけを押し上げて、あれこれやってみても、患者さんは救われない事の方が多い。

全ての患者さんが贅沢出来る訳じゃない。

限られた予算と余生の中で、各々の希望に近づけるために、奮迅している。

酷な言い方をすれば、搾取だと思っている。



慰安というのは本当に難しい。

不必要な要素ではないが、使い方を間違えやすい。

というより、間違っている。

お金を払って得られる慰安というのは、底が知れている。

本当の慰安は、医療よりも更に上の、もっと崇高なものだと思っている。
nice!(3)  コメント(2)  トラックバック(0) 

nice! 3

コメント 2

夏炉冬扇

今日は、
気力こめて、体動かしてます。
by 夏炉冬扇 (2012-08-27 16:50) 

kaya

> 夏炉冬扇 様

今晩は。

いつもコメント有り難う御座います。

信念もって、仕事してます。

by kaya (2012-08-28 02:30) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0

Twitterまとめ投稿Twitterまとめ投稿 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。