想像以上に生き難い世の中なのだろうか… [日記]
苦痛に耐えるという事は、人を萎縮させてしまうのでしょうか。
それは身体的な苦痛に限らず、精神的な苦痛も含まれるのが通常です。
しかし、それが何の苦痛なのかが、当の本人にも僕にも分からない時があります。
所謂、健康な人が耐えられる範囲の苦痛、それは日常に有り触れたモノで、ある程度の耐性を備えている、或いは容易に無視できる程度の苦痛であるならば、それを感受しなくても済まされるのかもしれません。
何がその子を苦しめているのか…その推察が難しいという話。
きっと、僕より他の誰より、多くの苦痛に耐えているのだろう…と思うわけですが、それが皆目見当つきません。
新学期が始まり、精神状態が不安定な日々が続いています。
ある人に言わせれば
「よく笑う可愛らしい子やん!」
だそうですが、よく笑うというのが、必ずしも良い状態とは限りません。
笑うという事しか出来ないからです。
笑った時の表情を観察すると良く分かる。
笑うというのは高等な感情表現の方法ですが、これは作為的な事も可能だという事を示しています。
本来、子供の笑顔は大人のそれと違って、飾りがありません。
でも、それは健やかに育っている子供の笑顔であって、子供の作り笑いほど恐ろしいものはありません。
ただし、今回の場合は作り笑いというよりも、笑顔という表現がどこかで阻害されていると言った感じ。
笑っているのに、笑ってない。
笑う門には福来る…と言いますが、彼女の中では過剰に笑うこと、意図的に笑う事が、何らかの回避行動に関わっているという事。
笑うというのは、ある種の頓服のような効果があるのかもしれません。
しかし、それは原因を究明したことにはならず、やはり何らかの根本的な対処が必要です。
しばらく独りにさせて、様子を観察してみます。
基本的にピアノの前に座り込む事が多いですが、大きな音を弾き鳴らした後、突然泣き出します。
右の耳を塞ぎながら、大音量で鳴らします。
これも初めての事ではないので、もう少し様子を探ってみます。
泣いている子供が居たら、放っておける大人は少ないと思います。
ついつい、目の前に座って、話を聴こうとします。
まだ感情が交錯しているのか、泣いたり笑ったりの繰り返し。
椅子に座ったまま、前にしゃがみ込んだ僕を、足で蹴ってきたので、そのまま倒れて動かなくなったフリをしてみました。
すると、
「…っフン!」
…と、何かの飛沫が頭に掛かりました。
たぶん、鼻水を掛けられたんでしょう。
しばらくすると、顔を覗き込んできて
「ゴメンね」
と、一言。
正直に言いますが、結構屈辱的です。
でもね、これと同じような事を、社会やその周囲の人間は、彼女に我慢させているのかもしれません。
彼女の心の中はサッパリ解らない。
通常は僕が鍼をしますが、今日は彼女自身にしてもらいました。
と言うより、普段から自分でやりたがっているんですけどね。
反則と言えば反則ですが、今日は許可しました。
ツボの位置自体は間違っていないし、ただ刺し方が雑なので出血は仕方がありません。
効果は「う~ん…」ですが、少し落ち着いたようです。
ただ少し懸念しているのが、これが自傷行動に転化してしまわないか…という事です。
介護でも同じ事が言えますが、この子の御両親も心身的な疲労が積み重なります。
心力の消耗で尽きる前に、何とか有効打が欲しいところです。
子供の成長、環境の変化、それらは無言で彼女を押し上げ押し付けて行きます。
長い目で…と言いますが、実際には、時間的な猶予はあまり無い。
今、彼女が居る場所は保護されています。
しかし、それもいつかは崩れるでしょう。
泳ぐためには息継ぎをしなければなりません。
いつまでも、しがみ付いていることは出来ません。
「○○してイイかい?」
と言うのは、彼女の口癖。
殆どの大人、両親や教師も含め
「ダメ!」と応えます。
常識的に考えて良くない事は、「ダメ」なのが妥当です。
そんな事は彼女も分かっていることだし、大人も分かっていること、僕も分かっていること。
反感を買うのが、彼女の目的だと皆は言います。
僕もそういう風に思う所があります。
常識は、人の都合によって形成されます。
僕らにとっての常識は彼女にとっての非常識、そう言えるかもしれませんし、彼女にとっての常識が僕らにとっても常識であるかもしれません。
常識というのは、あまり当てになりません。
当人たちの思い込み、体裁。
彼女の中のルールは、社会には通用しません。
ルールというのは常識ではなくて、作用の事です。
赤を赤と見るのが普通ですが、赤を赤と見ていても、赤と表現しない事もある。
誰にとっても、赤が赤とは限りません。
でも認識上は、たぶん赤ですから、なぜそれが伝わらないのか苦しむことになります。
彼女に限った事では無く、誰もが我慢しなければならない事があります。
普段、我慢できる事でも体調の悪い時は我慢できなくなる事もあります。
この世界は、彼女にとっては生き難いのでしょうか。
もし重力という縛りが、この地球上の生命の多様性を示しているとしたら?
耐える事で得られるものもある。
しかし、それが堪え難い事であるならば、この世界は苦痛以外の何物でもないのかも知れません。
重力に逆らえない者は、生きる事さえ適わない。
もし、そのような極々当たり前に存在する作用が、何か他にあるとしたら、僕が気付いていないだけで、大きな見落としをしているのかもしれない。
それは身体的な苦痛に限らず、精神的な苦痛も含まれるのが通常です。
しかし、それが何の苦痛なのかが、当の本人にも僕にも分からない時があります。
所謂、健康な人が耐えられる範囲の苦痛、それは日常に有り触れたモノで、ある程度の耐性を備えている、或いは容易に無視できる程度の苦痛であるならば、それを感受しなくても済まされるのかもしれません。
何がその子を苦しめているのか…その推察が難しいという話。
きっと、僕より他の誰より、多くの苦痛に耐えているのだろう…と思うわけですが、それが皆目見当つきません。
新学期が始まり、精神状態が不安定な日々が続いています。
ある人に言わせれば
「よく笑う可愛らしい子やん!」
だそうですが、よく笑うというのが、必ずしも良い状態とは限りません。
笑うという事しか出来ないからです。
笑った時の表情を観察すると良く分かる。
笑うというのは高等な感情表現の方法ですが、これは作為的な事も可能だという事を示しています。
本来、子供の笑顔は大人のそれと違って、飾りがありません。
でも、それは健やかに育っている子供の笑顔であって、子供の作り笑いほど恐ろしいものはありません。
ただし、今回の場合は作り笑いというよりも、笑顔という表現がどこかで阻害されていると言った感じ。
笑っているのに、笑ってない。
笑う門には福来る…と言いますが、彼女の中では過剰に笑うこと、意図的に笑う事が、何らかの回避行動に関わっているという事。
笑うというのは、ある種の頓服のような効果があるのかもしれません。
しかし、それは原因を究明したことにはならず、やはり何らかの根本的な対処が必要です。
しばらく独りにさせて、様子を観察してみます。
基本的にピアノの前に座り込む事が多いですが、大きな音を弾き鳴らした後、突然泣き出します。
右の耳を塞ぎながら、大音量で鳴らします。
これも初めての事ではないので、もう少し様子を探ってみます。
泣いている子供が居たら、放っておける大人は少ないと思います。
ついつい、目の前に座って、話を聴こうとします。
まだ感情が交錯しているのか、泣いたり笑ったりの繰り返し。
椅子に座ったまま、前にしゃがみ込んだ僕を、足で蹴ってきたので、そのまま倒れて動かなくなったフリをしてみました。
すると、
「…っフン!」
…と、何かの飛沫が頭に掛かりました。
たぶん、鼻水を掛けられたんでしょう。
しばらくすると、顔を覗き込んできて
「ゴメンね」
と、一言。
正直に言いますが、結構屈辱的です。
でもね、これと同じような事を、社会やその周囲の人間は、彼女に我慢させているのかもしれません。
彼女の心の中はサッパリ解らない。
通常は僕が鍼をしますが、今日は彼女自身にしてもらいました。
と言うより、普段から自分でやりたがっているんですけどね。
反則と言えば反則ですが、今日は許可しました。
ツボの位置自体は間違っていないし、ただ刺し方が雑なので出血は仕方がありません。
効果は「う~ん…」ですが、少し落ち着いたようです。
ただ少し懸念しているのが、これが自傷行動に転化してしまわないか…という事です。
介護でも同じ事が言えますが、この子の御両親も心身的な疲労が積み重なります。
心力の消耗で尽きる前に、何とか有効打が欲しいところです。
子供の成長、環境の変化、それらは無言で彼女を押し上げ押し付けて行きます。
長い目で…と言いますが、実際には、時間的な猶予はあまり無い。
今、彼女が居る場所は保護されています。
しかし、それもいつかは崩れるでしょう。
泳ぐためには息継ぎをしなければなりません。
いつまでも、しがみ付いていることは出来ません。
「○○してイイかい?」
と言うのは、彼女の口癖。
殆どの大人、両親や教師も含め
「ダメ!」と応えます。
常識的に考えて良くない事は、「ダメ」なのが妥当です。
そんな事は彼女も分かっていることだし、大人も分かっていること、僕も分かっていること。
反感を買うのが、彼女の目的だと皆は言います。
僕もそういう風に思う所があります。
常識は、人の都合によって形成されます。
僕らにとっての常識は彼女にとっての非常識、そう言えるかもしれませんし、彼女にとっての常識が僕らにとっても常識であるかもしれません。
常識というのは、あまり当てになりません。
当人たちの思い込み、体裁。
彼女の中のルールは、社会には通用しません。
ルールというのは常識ではなくて、作用の事です。
赤を赤と見るのが普通ですが、赤を赤と見ていても、赤と表現しない事もある。
誰にとっても、赤が赤とは限りません。
でも認識上は、たぶん赤ですから、なぜそれが伝わらないのか苦しむことになります。
彼女に限った事では無く、誰もが我慢しなければならない事があります。
普段、我慢できる事でも体調の悪い時は我慢できなくなる事もあります。
この世界は、彼女にとっては生き難いのでしょうか。
もし重力という縛りが、この地球上の生命の多様性を示しているとしたら?
耐える事で得られるものもある。
しかし、それが堪え難い事であるならば、この世界は苦痛以外の何物でもないのかも知れません。
重力に逆らえない者は、生きる事さえ適わない。
もし、そのような極々当たり前に存在する作用が、何か他にあるとしたら、僕が気付いていないだけで、大きな見落としをしているのかもしれない。
2012-09-10 00:53
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今晩は。
お疲れ様です。
by 夏炉冬扇 (2012-09-10 20:36)
> 夏炉冬扇 様
おはようございます。
9月も半ば、ここも少し肌寒くなってきました。
by kaya (2012-09-12 09:57)