本当に医療が必要な人って誰でしょう? [日記]
治療と慰安という言葉が常に脳裏を過ります。
治療の中に慰安が含まれても、慰安の中に治療は含まれない。
それらが同居することはあっても、主従はある。
本来、安らぎの中に治療があるべきだが、治療に追随する安らぎが前提になる。
見方によっては、どちらも主になりえる。
状況によっては、どちらかに限定する必要もある。
断定的に、これは治療だ!と言うことが出来ないでいる。
鍼灸とは、そんなに曖昧なものなのだろうか?
この手技に安らぎを覚える患者さんがいる。
しかし、それが治療とは言い切れないこともある。
もし、いま受けている治療の全てが自費になった時、患者さんは、どのように対応するだろうか?
医療財源は公的な資金である。
誰かの支えによって成り立っている。
財源は労働力によって培われる。
労働力は誰が生み出しているのか?
僕自身も医療費は殆ど使わないが、父親も全くと言っていいほど使わない。
僕の場合は健康診断くらいは受けた方がいいかもしれない。
必要な治療や検査を受けないとかは論外だが、それでも極力病院に掛からないように、自分で出来ることは何とかしようとしている。
父親は社会保障の専門家であるから、思うところがあるのかもしれない。
常に自己管理に努めている、と言うところ、敬服している。
次世代に負債を残さない…ということか?
医療費を負債というには、かなり乱暴かもしれないが、実際にはそういう側面がある。
目の前の患者さんだけを見れば、世の中が見えなくなってくる。
検査を断るドクターがいて、それをケチだという患者さんがいる。
診察して、必要ないと判断すれば必要ない。
検査を断る医師が正しい、と思う。
検査も無料じゃない。
その後に残る不安をどうするかは、そのドクターの仕事だけど。
平成22年4月審査分の受給者1人当たり費用額は157.3千円
≪引用元≫http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/kaigo/kyufu/09/kekka2.html
年間にすると200万弱かな。
一般的な鍼灸師の年収よりやや少ないくらいか。
治療も慰安も、自分の懐具合と相談して受けるのは自由だが、それを公的な医療費として…となると、ちょっと話が違ってくる。
何を以って治療とするか…。
ゆとりのために治療をすることは出来ない。
結果、その人が倒れたとしても。
必要な治療を受けれらない患者さんもいる。
必要以上に贅沢をしている患者さんもいる。
患者(patient)とは、元々はラテン語の『耐え苦しんでいる(もの)」の意』【名詞】(patience)らしい。
医療者とは本来、耐え苦しんでいる者に安らぎをもたらす者だが、結果として治療という行為が生まれる。
目的があるから、慰安としての機能が成立する。
(治せなくてもじゃなく)治さなくても機能する(?)医療制度、療養費。
治らないというのが前提(?)だがら、治らなくても文句も言われない、と勝手に解釈している。
しかし、決して治らない訳じゃない。
保険治療を受けるのが悪だという話ではなく、それを受ける時は、患者さんにもそれ相応の意識が必要だということ。
僕が療養費を扱えるという事は、権力ではなく、国民の厚意です。
治療をするのではなく、治療ではない方法を模索している。
それは、予防という安易な表現ではないような気がする。
甘やかされているのは患者さんではなく、そもそも自分自身だったのかもしれない。
慰安という言葉に嫌悪感を覚えるのは、治療という概念を確立できていない自分自身に対する嫌悪感なのかもしれない。
脳梗塞の患者さんの所へ往診している。
もう2年になる。
最初の頃は、腰が痛くて歩けないと言っていた。
初診の時から、なかなか体力勝負だった。
腰が痛くて、初めて対面する僕にしがみ付き、トイレまで連れていってくれと頼まれた。
一ヶ月ぐらいして、ようやく腰痛も何とか落ち着き、硬直せずに歩けるようにはなっていたように思う。
その後も治療とリハビリを続けている。
介護保険を利用しているので、週2~3回は各専門の療法士さんが往診に来ているが、毎回毎回擦ってばかりで、ろくにリハビリしてくれないと言う。
この目で確認していないので本当かどうかは分からない。
患者が言うのだから取り合えず信じようと思う。
リハビリの内容については当人の目的があるのだろうから、とやかく言う理由はない。
『先生が来てくれへんと困るわ~』と言われると悪い気もしない。
困るわ~と言われるのは、僕が甘いからかもしれない…と反省する点もいくつかある。
その日は、ちょっとデリケートな問題を抱えた日だった。
治療の後、『歩く練習をしましょう』と声を掛けたが、『しんどい~』と言って起きない。
はいはい、と言って適当にあしらうのも一つの方法なのかもしれないし、殆どの療法士さんはそうしているのかもしれない。
もちろん、その日の体調や精神状態によっても大きく左右される訳だから、いつも上手く流れに乗れる訳ではない。
言い換えると、数少ないチャンスを逃す術はないということ。
歩かないから痛いのか、痛いから歩かないのか。
どちらも正しい。
負の無限ループ。
治療で痛みがとれたら終わり、ではなくて、歩行練習まで到達しなければ、結局ベッドから自発的に起き上ることはしなくなる。
歩く練習を嫌がっていたとしても、あの手この手で最初の一歩までに導く。
もし、上手く歩けたら、今日のように喜んでくれるだろうと思う。
『へへへっ、歩けるわ!』と照れ笑い(?)
苦痛に歪んだ表情はあまり見たくない。
少なくとも、苦痛のうちにある間は、リハビリぐらいは楽しくやりたいもんです。
でも、それは厳しさがあるから、楽しくもなれる。
成功体験は、何歳になっても貴重なものだ。
その裏には多くの失敗も乗り越えてきた。
頑張って歩けるようになったその姿を見ること以外、この仕事に意味は無いと思う。
それは僕の成功体験でもある。
死ぬ気で頑張ったって、実際に死ぬわけじゃない。
死ぬ気で行ってみよう!
老後と言うには、まだまだ早すぎる。
甘えは許さない。
というのは、自分への訓戒でもある。
これは、男同士だから真剣勝負が出来るのかもしれない。
男女だったら、少し状況が変わる、と思う。
リハビリ専門職ではない僕に、こんな機会を与えてくれたことに、とても感謝している。
この物語も、来月から第三章に入る。
治療の中に慰安が含まれても、慰安の中に治療は含まれない。
それらが同居することはあっても、主従はある。
本来、安らぎの中に治療があるべきだが、治療に追随する安らぎが前提になる。
見方によっては、どちらも主になりえる。
状況によっては、どちらかに限定する必要もある。
断定的に、これは治療だ!と言うことが出来ないでいる。
鍼灸とは、そんなに曖昧なものなのだろうか?
この手技に安らぎを覚える患者さんがいる。
しかし、それが治療とは言い切れないこともある。
もし、いま受けている治療の全てが自費になった時、患者さんは、どのように対応するだろうか?
医療財源は公的な資金である。
誰かの支えによって成り立っている。
財源は労働力によって培われる。
労働力は誰が生み出しているのか?
僕自身も医療費は殆ど使わないが、父親も全くと言っていいほど使わない。
僕の場合は健康診断くらいは受けた方がいいかもしれない。
必要な治療や検査を受けないとかは論外だが、それでも極力病院に掛からないように、自分で出来ることは何とかしようとしている。
父親は社会保障の専門家であるから、思うところがあるのかもしれない。
常に自己管理に努めている、と言うところ、敬服している。
次世代に負債を残さない…ということか?
医療費を負債というには、かなり乱暴かもしれないが、実際にはそういう側面がある。
目の前の患者さんだけを見れば、世の中が見えなくなってくる。
検査を断るドクターがいて、それをケチだという患者さんがいる。
診察して、必要ないと判断すれば必要ない。
検査を断る医師が正しい、と思う。
検査も無料じゃない。
その後に残る不安をどうするかは、そのドクターの仕事だけど。
平成22年4月審査分の受給者1人当たり費用額は157.3千円
≪引用元≫http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/kaigo/kyufu/09/kekka2.html
年間にすると200万弱かな。
一般的な鍼灸師の年収よりやや少ないくらいか。
治療も慰安も、自分の懐具合と相談して受けるのは自由だが、それを公的な医療費として…となると、ちょっと話が違ってくる。
何を以って治療とするか…。
ゆとりのために治療をすることは出来ない。
結果、その人が倒れたとしても。
必要な治療を受けれらない患者さんもいる。
必要以上に贅沢をしている患者さんもいる。
患者(patient)とは、元々はラテン語の『耐え苦しんでいる(もの)」の意』【名詞】(patience)らしい。
医療者とは本来、耐え苦しんでいる者に安らぎをもたらす者だが、結果として治療という行為が生まれる。
目的があるから、慰安としての機能が成立する。
(治せなくてもじゃなく)治さなくても機能する(?)医療制度、療養費。
治らないというのが前提(?)だがら、治らなくても文句も言われない、と勝手に解釈している。
しかし、決して治らない訳じゃない。
保険治療を受けるのが悪だという話ではなく、それを受ける時は、患者さんにもそれ相応の意識が必要だということ。
僕が療養費を扱えるという事は、権力ではなく、国民の厚意です。
治療をするのではなく、治療ではない方法を模索している。
それは、予防という安易な表現ではないような気がする。
甘やかされているのは患者さんではなく、そもそも自分自身だったのかもしれない。
慰安という言葉に嫌悪感を覚えるのは、治療という概念を確立できていない自分自身に対する嫌悪感なのかもしれない。
脳梗塞の患者さんの所へ往診している。
もう2年になる。
最初の頃は、腰が痛くて歩けないと言っていた。
初診の時から、なかなか体力勝負だった。
腰が痛くて、初めて対面する僕にしがみ付き、トイレまで連れていってくれと頼まれた。
一ヶ月ぐらいして、ようやく腰痛も何とか落ち着き、硬直せずに歩けるようにはなっていたように思う。
その後も治療とリハビリを続けている。
介護保険を利用しているので、週2~3回は各専門の療法士さんが往診に来ているが、毎回毎回擦ってばかりで、ろくにリハビリしてくれないと言う。
この目で確認していないので本当かどうかは分からない。
患者が言うのだから取り合えず信じようと思う。
リハビリの内容については当人の目的があるのだろうから、とやかく言う理由はない。
『先生が来てくれへんと困るわ~』と言われると悪い気もしない。
困るわ~と言われるのは、僕が甘いからかもしれない…と反省する点もいくつかある。
その日は、ちょっとデリケートな問題を抱えた日だった。
治療の後、『歩く練習をしましょう』と声を掛けたが、『しんどい~』と言って起きない。
はいはい、と言って適当にあしらうのも一つの方法なのかもしれないし、殆どの療法士さんはそうしているのかもしれない。
もちろん、その日の体調や精神状態によっても大きく左右される訳だから、いつも上手く流れに乗れる訳ではない。
言い換えると、数少ないチャンスを逃す術はないということ。
歩かないから痛いのか、痛いから歩かないのか。
どちらも正しい。
負の無限ループ。
治療で痛みがとれたら終わり、ではなくて、歩行練習まで到達しなければ、結局ベッドから自発的に起き上ることはしなくなる。
歩く練習を嫌がっていたとしても、あの手この手で最初の一歩までに導く。
もし、上手く歩けたら、今日のように喜んでくれるだろうと思う。
『へへへっ、歩けるわ!』と照れ笑い(?)
苦痛に歪んだ表情はあまり見たくない。
少なくとも、苦痛のうちにある間は、リハビリぐらいは楽しくやりたいもんです。
でも、それは厳しさがあるから、楽しくもなれる。
成功体験は、何歳になっても貴重なものだ。
その裏には多くの失敗も乗り越えてきた。
頑張って歩けるようになったその姿を見ること以外、この仕事に意味は無いと思う。
それは僕の成功体験でもある。
死ぬ気で頑張ったって、実際に死ぬわけじゃない。
死ぬ気で行ってみよう!
老後と言うには、まだまだ早すぎる。
甘えは許さない。
というのは、自分への訓戒でもある。
これは、男同士だから真剣勝負が出来るのかもしれない。
男女だったら、少し状況が変わる、と思う。
リハビリ専門職ではない僕に、こんな機会を与えてくれたことに、とても感謝している。
この物語も、来月から第三章に入る。
2012-06-05 01:19
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