Twitterまとめ投稿 2014/01/16 [独白]
e88c85ツボの位置と運動量を同時に高精度に認識するのは難しいらしい。経絡の流れというかそういうものを意識しようとすると、ツボの位置らしきものはぼやけてしまうし、場所を固定化しようとすると今度はルートがぼやけてしまう。01/15 16:45 e88c85もともと、科学的に測定できていないツボという曖昧な存在を五感で認識しようとしていることに無理があるのかもしれない。01/15 16:46 e88c85ツボの運動量(言い換えると作用?)というのは、所謂、活法のような運動連鎖の中に見出せるのかもしれない。あるときには現れるが、現れない時もある。在るけど無い。一定の条件が整って初めて発現されるようなモノで、それも固定化しようとすると、もうそこには無い。01/15 16:49 e88c85そこに在ると感じることは出来ても、それを固定化出来ないし、それを認識するだけの十分な時間も足りない。01/15 16:49 e88c85逆に、ツボの位置というのは、鍼灸のような、人間が安静にした状態で捉えるのがやり易いように思う。もちろん、位置という事に依存してしまうから、そこに固執すればするほど、運動量というか流は希薄になってしまう。01/15 16:51 e88c85運動量が位置情報に変換されるために、即効性という点ではやや劣るというに思う。01/15 16:52 e88c85詰まるとこと、ツボというのは、二面性を持つ情報ということになる。位置か運動量か、そのいずれかの情報を優先することで、一方は把握できない状況になる。01/15 16:53 e88c85では、どちらの情報(位置・運動量)も同じぐらいの精度で感じてみるのはどうか?01/15 16:55 e88c85一方を手に入れれば、一方を必ず失う。01/15 16:56 e88c85流々転々01/15 17:16 e88c85その川の水を掬っても、それはもう川ではなく、その水でさえない。見ることも触れることも出来るが、手に収めることは出来ない。01/15 17:17 e88c85接点を持つことで関係性を築くことは出来るが、その時点で自分自身も影響を受けているし、全くの傍観者になることは出来ない。ツボに触れるということは同化とか融合に近いものであり全く分離して考えることは出来ない。それは施術者と患者の在り方でもあるのかもしれない。01/15 17:22 e88c85逆に、ツボの運動量が少なるなるということは位置が固定化されているということ。そういうものを慢性病と言うのかもしれない。要は位置と運動量の平衡ということなのか。01/15 17:50 e88c85手関節背屈時における尺側の疼痛は、肩甲骨の下方回旋に問題があるようだ。01/15 20:29
2014-01-16 07:01
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