プレイヤーじゃなくて監督? [日記]

多くの患者さんを抱えるようになると、それぞれに十分な時間を充てる事が難しくなってきます。

また経営的にも、それは難しいのが現実です。

それを、冷たいとか金儲け主義だとか言われることに、少し心苦しさを感じるところではありますが、そもそも、その患者さん一人に付きっきりという事自体が不思議な事なので、御了承願いたいと思います。



患者さんが必要としているのは、治療だけとは限りません。

それは、ドクターの仕事の範疇じゃない?という事も質問されますが、それは自分の糧となると思って、必死に調べます。



一時間治療したとしても、残りの23時間は、とてもじゃないけど診る事は出来ません、それは患者さんにおいても同じことだと思います。

そう言う訳で、出来るだけ多くの施術者が、一人の患者さんに対して、有益な多くの情報を共有できれば…と思うのですが、これが職種の壁を越えて実現することが難しく感じています。

とは言っても、それは言い訳であって、鍼一本で勝負出来ない自分の未熟さを棚に上げているだけですが…(T_T)



雇われ時代から言われてきた事でもありますが、如何に人を動かすか。

一人で活動できる時間は限られています。

今でも、とても十分対応できる余裕はありません。

自分の手を離れた時に、その患者さんが如何に宜しく生活出来るか、その一言に尽きます。

人を動かすということは、自分自身は他の人の何倍も動いているはずです。

そういう意味では、未だプレイヤーの域すら脱することすら適わない。



リハビリは、その患者さんが自立するために行います。

80歳を超えても、働く意志は強く残っています。

この時点では、もはや働くというより、社会に貢献する、恩返しするという目的しかないみたいです。

自立するというのは、この手を離れてゆくという事です。

患者さんが自ら手を離しても不安に感じないように、こちらも手を離すように努めなければなりません。

手を離すというのは、見放すとは違います。

手を離せば、離れれば離れる程、物理的な距離が離れる程、心理的な距離はより近くなければなりません。



人が一人、立って歩けるようになるまで、それは普通の努力では成り立ちません。

患者さんも僕も同じ土俵です。



成長という言葉が当てはまるか分かりませんが、子供の成長速度に比較して大人のそれは、あまり顕著ではありません。

『トイレに行くから待ってて』という時間は待てますが、寿命は一切待ってくれません。

歩けるようになることが、大前提とは言いませんが、限られた時間、それは僕の年齢よりもヒシヒシと感じていると思います。

その中で出来る事、この分野に従事している人は、もう少し真剣に考えて欲しいです。
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