なぜ、マッサージ信仰は無くならないのか? 3 [日記]

ある患者さんから提供して頂いた写真です。

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これから書くことは、決して、リラクゼーションを否定する意味も、マッサージを否定する意味もありません。

ただ、こういう事もあったのだ(これからもあるだろう)ということを書き留めます。



結果から先ず書けば、診断名は「自己免疫性膵炎」でした。

症状は、以前から続く肩凝りと全身倦怠感。

あと、触診では、鳩尾あたりに微妙なシコリがありました。



もともと、医師の同意を得たうえで「頚腕症候群」に対して施術していました。

その時の症状自体は安定的で、不自然さも感じませんでした。

いつかの夏の季節でしょうか、若干の違和感を感じ始めたのは。

何かが違う、皮膚の硬さと言うか、よく分かりません。

疲れ易いというのも、年齢のせいでしょうか…70歳代です。

肩を揉めば気持ち良いと言います。



はっきり分からない場合は、然して不安を感じなかったかもしれません。

でも、何かは分からないかど、何か気になる…そういう感じ。



入院手術の2週間まえぐらいから、徐々に黄疸が現れます。



その1ヶ月前くらいから、関節の節々が痛い、腫れるなどの症状を聴取しています。

この時点で、主治医への診察を、強く、強く、強く、薦めておけば、もう少し早く発見できていたかもしれません。

鳩尾には拍動があり、それも段々強くなってきていました。

患者さんは、病院が嫌いですが、鍼灸院は落ち着くとか何とかで気に入っているようでした。

だから…という訳でもないかもしれませんが、精査を頑なに拒みます。

「もし重篤な病気が見つかったら嫌だから…」という理由ではなさそうでしたが、今でも本心は分かりません。



入院手術の1週間前、とうとう僕は耐えられなくなってしまったのかもしれません、それは恐怖です。

それは、手に負えないと思ったからか、無知だからだったのか、患者さんの状態が徐々に悪化していたからだったのか、自己保身のためだったのか、患者さんのためだったのか、それは分かりません。

最初、頭に浮かんだのは漠然と膵癌でした。

一瞬、その病気の予後と、リアルな死が目の前を塞ぎます。

手遅れでは、人は蘇りません。

入院手術の3日前、半ば強制連行です。

もっと、早い段階でスマートにアシスト出来れば良かったんですが、当時の限界だったのかもしれません。

懇々と考え得る可能性を提示し、病院受診を承諾してくれました。



幸い、患者さんは現在も元気で笑顔ですし、今でも施術させて頂いています。

毎朝一錠の薬と、少しの倦怠感…それは残ります。

僕は、なんの力にもなれなかったかもしれませんが、何よりも患者さんが無事でホッとしています。



これが、僕自身のトラウマになっているとは言えないと思います。

何も失うものは無かったんだろうから…(?)



患者さんに対しては、鍼灸師が、全てとは言えないかもしれませんが、医療者としての責任を持ちます。

鍼灸師が負える責任とは、医師が負うことの出来る責任とは違うと思います。

そこまで傲慢で無知にはなれません。



お客さんであれば、契約上の(例えば金銭の支払いとか)サービスが妥当かもしれません。

逆に言えば、それがプロフェッショナルであるための条件かもしれません。



では、患者さんと鍼灸師との契約とは何でしょう…。

もちろん、各々の症状を緩和させる…こと。

それで必要十分かもしれません。



客であっても、患者であっても、それぞれに適したプランを提供するのは、どの業界でも当たり前です。

最終決定権はclientにありますが、その決定を左右できる裁量は誰でも持てる訳ではありません。

「殺してくれ」という患者さんを、実際に殺せるかどうか、そういう範疇かもしれません。

ちょっと大袈裟過ぎますね…。
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