柔道整復師の療養費を改定へ [日記]

柔道整復師の療養費を改定へ
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130327/k10013475251000.html

当然ながら、はりきゅう療養費についても改定がなされる訳で。

整骨院に勤めていた時期もある訳で
詳しい請求方法については特に勉強しなかったけれども(必要なかったから)

運用してみて
療養費の取り扱いはとても便利が悪いという印象しかない

制度自体の不備や問題点もあるけれども
患者側の教育も必要であり
制度を変えたからすんなりうまく行くはずもなく
早期に病気を治癒に導く事も念頭に入れなければならない

これまで考えてきた事だが
医療という性質から
一般的な消費活動とは異なり
出来る限り平等を考えてきた

平等とは
義務を全うした上で得られる権利であり
義務を果たさない者においては権利を主張することも認められない

患者における義務とは何なのか…
その答えはまだ明確に出来ていない

鍼灸という、医療の中でもやや特殊性を有するものについては
社会保障という観点からは少し外れ
営利目的に比重を移しても差し支えないものだと感じている
一方で、医療費削減という観点からは蔑ろに出来ない部分もあると考えている

現実的に
(様々な理由において)受療出来る者が限られているという性質を持つ鍼灸を扱う僕にとって
今後、どのような展望を持って行くのか…

現状や今後の展開を踏まえ
患者さんが、「今」何をすれば現状を維持できるのか
良くなっていくのか
ということを早急に知っておいて欲しいと思っている

懸命に治る努力をするということは
被保険者の責任なのだから

教訓 3 [日記]

「アンタの治療じゃ治らん!」という言葉が受け止められるようになった
言い換えると、患者さんの努力不足も認められるようになったという事
説明説得しても、聴いてもらえない患者さんも必ずいるという事
自分がどう頑張っても、どうにもならない事は必ずあるって事
患者さんが怠けているのを、助けているつもりが
それを助長するように、なんでもかんでもやっちゃってあげる事

どんな患者さんにも治る権利がある
というのは大きな間違いで
治る権利があるんじゃなくて
治そうとする権利があるだけ
治してもらえるのが当たり前だと思っている患者さんは絶対に良くならない
治してもらえない状況もあるという覚悟がなけりゃ、自分では何もしない

鍼灸師っていう職業は
緊急性が低いし、需要も全く高くない
需要が低いというのは、社会の健康に対する意識が低いという風にも解釈できる

鍼治療を受けなきゃ、死んじゃうって事はまずないし
一生涯、受けなくても特に支障がある訳じゃない

健康の価値観は患者さんが決めることだし
それを他人に言われる事もない

ただ
健康意識の低下や予防に対する意識が少ない人は
いずれ膨大な医療費が掛かる事になる
健康保険によって賄われる事になるが
誰かが納めた保険料であって
個人が一人で負担している訳じゃない
病気になった時には
経済的にも誰かの助けを借りているということを自覚しなきゃならない

予防を実践するということは
保険料を納める人としては当然の義務
病気になったら治療してもらえるというのは甘い考えだ
普段から病気にならないように注意しながら
どうしても病気になってしまった時は
ちょっと申し訳ない気持ちが有る方が良い

94歳の御爺ちゃんは
最期に、こう言って亡くなられた
「最期に、鍼治療でこんなに楽にさせてもらって幸せや~」
その人にとっては、鍼や医療を受ける事がとても贅沢な事だったのかもしれない

茅蜩日記 落款

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教訓 2 [日記]

大して腕がある訳ではないけれども
自分の持てる能力を全て出し切っても治らないという事は往々にしてある

ただし、それは自分の技術が至らないという訳ではないんだと、ちょっと感じるようになった

初めの頃は
自分に足らない部分があるために治らない症状もあるのだと考えていた
その可能性は今でも完全否定は出来ないけれども
多くの場合は当てはまらない

結局は
患者さんを甘やかしていただけなんだな~と
というより、騙していた?に近いかもしれない
自身の努力がなくても、他力本願で何とかなる…と。
その一点は確実に後悔している

治るなら何でもしてみよう!
というのが、そもそもの間違い

タダほど価値の無いものはない
仕事にはそういう面がある
何でもやってくれると思われる、それだけで
全く効果がなくなってしまう
本来は効果のあるものであっても
それが重要視されないというだけで
全く意味の無いものになってしまう

病治しにおいて
患者さんの間に格差が生まれるのは仕方の無いことだけれども
それが、どうにも避けられないことなのかが納得できなかった経緯がある
格差や差別化は避けられない、というより
寧ろ必要なものなんだろうと考えるようになった

個人的な感覚に頼れば
丹精込めて作った物を
価値あるものとして愛でてくれる人と
只のモノとして扱ってくれる人
丹精込めてって言うのは自己満足の部分もあるし
相手を想定している場合もある
結局のところ、受け取る側に依存してしまう

個人的な関係や好意をもとにしたプレゼントなら
タダでも良い
でも、それが仕事となると
0と1の違いがハッキリ出てくる
1では駄目で100なら良い場合もある
とにかく0は駄目だ

ボランティアの難しさも感じる
というより、無償で行為することの難しさを痛感させられた感じだ
とにかく期限無しというのは絶対に在り得ないし在ってはならない

良い事をやっているんだ!という自己欺瞞があって初めて成立する、これまでの状況
自分の心を欺いているんだから
患者さんの事も欺いている事になる
嘘の心は、どこまで言っても嘘以外にはなれない

患者獲得のためにそうやってサービスするしかなかったと言うことが出来たら
もう少しマシだったかもしれない
全力で取り組めば採算度外視でも、最高の結果が生まれれると思い込んでいた
結果、最高ではなく最低だった

その全力が評価の対象外だったんだろう
最高だとかそういう評価は自分の中だけのものであって
相手の尺度じゃない

良くなりたかったら
人は努力する
その努力の芽を奪ってしまったんだ
ぬくぬくと温室に浸けたように
そういう意味で
なんて酷い事をしてきたんだろうと後悔しています

僕自身の努力の矛先を間違えたかな…

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教訓 [日記]

考える事が沢山あって
書いては保留して
書いては消して
書いては書き直して
あんまりブログの更新もしませんでした

自分の中で納得いく答えが欲しくて
試行錯誤してみたけど
まぁ上手く行かないこともあるんだと
良い教訓になりました

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春ジャケット [日記]

先日、オーダーしていたジャケットを受け取りに行きました

スーツとかジャケットって、オーダーすると思うのですが、結構窮屈なんですねぇ
オーダーしたのに窮屈ってチョット可笑しな話かもしれませんが…
自分の身体に合わせて作ってもらったはずなのに、色んな所に締め付ける感じがあります
スーツって、元々そういう類の服装なのかも???

以下、気になる点について書いてみます

僕の姿勢の問題もあるのですが
袖部分が上腕を圧迫して手が痺れます
圧迫部位と痺れの部位からして橈骨神経が原因だろうと思われます
元々、この神経が痺れていたので、それが顕著になった感じです

自分なりに真っ直ぐな姿勢を保とうとすると、とても疲れます
それは確かに真っ直ぐな姿勢なのか?という事がひとつの疑問点
自分では、真っ直ぐたと思っていても、真っ直ぐじゃない場合もある
逆に例え真っ直ぐでなくても症状が出なければそれでも構わない…そうとも言えます

仕立て屋さんは、身体に合わせてスーツを仕立てると言いましたが
僕個人としては、スーツに合わせて身体を修正していきたいと思っている
疲れるようなら着方が間違っている
着心地が好ければ、姿勢がシャンとしている

僕にとってはスーツは理想的な姿勢に対する型紙なのかもしれません

もし経済的な束縛が無くて、どんな治療でも受けられるようになったら、本当に良くなるんだろうか? [日記]

否。

やっぱりそうはならないんだろうな~と思いました。
最終的には、その人がどう生きるか、どのように気を付けるか、どのように向き合って行くか…と
根本的な部分は患者さんに委ねることになります。
どんな病気でも治してみせるという信念は必要かもしれませんが、僕の場合は天狗になっていただけで烏滸がましさ以外の何物でもありませんでした。

「治せなくてもいい」

そう考えるだけで、ちょっと楽になったような気がします。
治療不適応や時間経済的な環境因子によっても、それは難しいかもしれません(出来ませんとは言わないと思いますけど)という事も苦にならなくなりました。

治せないのは、自分が未熟だからという事は勿論ありますが
全てを自分の責任に転嫁する必要は無いんだと。
商売観念も含めて、治療もやり易くなって、落ち着いて出来るようになったかな。

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人の自慢話ほど鬱陶しいものはない [日記]

ご飯を食べに行って、店主の自慢話というか身の上話?を聞かされる事ほど苦痛なものはない。
店主と客の社会的な地位や経験値、ポジションでそういう関係性になるコトはあるかもしれないけど。

ふと、考えてみた事がある。
なんで、この患者さんはこんなによく喋るんだろうか…と。
話し相手が居ないとか、誰かと接点を持ちたいとか、そういう理由があっての事もある。
よくよく考えると、単純にそう言った事だけが理由ではないと思ったことがある。

ある往診先の患者さんの話。
兎に角、医療者の自慢話が強烈すぎる。
患者さんが完全に聞き役に回っている状態。
病気の事に関して質問しても、あ~だこ~だと話を濁されてお仕舞。
家に着いてたった5分、そして直ぐ帰る。
普段、外に出れない患者さんのために、外の情報を提供するのは良い事だとは思うけど
正直、自分が患者の立場ならウンザリするかも…。
何となくだけど、仕事の愚痴の捌け口にされている感じだ。
只でさえ、病気で憂鬱になっているのに、ろくに話も聴いてもらえずに、ひたすら聞き役に徹する。
苦痛だ、と思うのは僕だけだろうか?

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ウンザリな日曜日 [日記]

今日は訳あって、近所で外食することに。

一年振りの再訪となる日本料理屋
以前、忘年会で使ったのが最後で、その前にも家族を招待した事があったけど、あまり好評では無かったので、以来足が遠のいていた
店の面子もあるので、あまり酷評は出来ないけど、やっぱりもう行かないかも…と思ってしまった
やっぱり…
少し足を伸ばしてでも、美味しいと確信している店に行った方が後悔しなかったな~
店長は、僕より1才年上
自分の事は棚に上げて、まだまだ若いなぁ~って思ったり
注文したのは
1.焚きもん(普通、家でも食べられるレベル)
2.生中
3.椀物(白子の天ぷら、みぞれ餡かけ)
4.〆サバ(これは旨い)
5.日本酒(杜の蔵・福岡・久留米)、他にも銘柄があるのに、勝手に決められたと感じた
6.蒸し鳥(職場の近くの餃子屋と比較するために注文、コストパフォーマンスでは餃子屋以下)
なんか良く分からない注文の仕方だけれども、なんだか途中で帰りたくなった気持ちが大きくなった感じ
〆て4,000円
(ん~なんだか気分的に高い…)

店に入った時から、何だか高圧的な態度
「こんにちは~、お久しぶりです」って言ったら
冗談程度に、「お名前なんでしたっけ?」って聞かれたから
「○○です」って答えると
「覚えてますよ!」って
この遣り取りに意味があるのか、入った時からちょっとイライラしました
やっぱり、もうこの店には行かない(というか歓迎されてなかった?)

料理は悪くないんだけれども、店主の態度が横柄というか、思いやりにかけるというか
何て言うんでしょう…
会話の端々にイラってくる何かが有るんですよね…
適当な表現が思い浮かびませんが、何か生意気な感じです
親父に言わせると、チャラい
これは若者を非難する表現かもしれませんが、そういうチャラいという感じではなくて
上辺だけ…って感じなのかな…
それこそ、老舗で修業したらしいですけど、何か上っ面がえぇ恰好した感じ

空腹が満たされていないので、そこから徒歩3分の所にあるイタリアンのお店に。
お気に入りのポルチーニ茸のパスタ(¥1,495)と、スパークリングワイン(¥459)を注文した

なんかモンモンとした不満全開の気分で家に帰りました

帰ってから、自分の仕事の在り方についても考えてみました

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プレゼン能力 [日記]

「昨日、テレビでこんな事を言っててね~、結局そういう事なんやわ~」って
新しい知識を仕入れて、とても嬉しそうな患者さん

でも、そういう事は常日頃から治療の時に口を酸っぱくして話していたつもりだったんだけど…
メディアの力には敵わないのか
それとも単純に僕の伝え方に至らない所があるのか
(多分、後者)

好きな人に告白する時のタイミングに似ているのかもしれない
同じ台詞でも、相手の心に届く時と、そうでない時があるように
シチュエーションも大切

結果が上手く出ないのは、そういう所に配慮が足りないからなんだろう

所謂、「間」とか「抑揚」とかも大事なんろうな
それは治療にも言えること
リハビリでもそうだけど、飽きさせずに続けてもらうためには楽しいと思わせることも重要

一方通行で変化に乏しい作業というのは
往々にして術者にとっても患者にとっても負担になる

治すっていう事を頑なに貫く姿勢も必要だけど
時には、魅せる治療というのも必要なのかもしれない

お笑いの理論というキーワードで検索してみた
緊張の緩和理論というキーワードに行き着いた
東洋医学で言うところの陰陽であったり
或いは交感・副交感神経などの自律神経にも当てはまる事
お笑いを科学化するというのは、ナンセンスなのかもしれないけれども
(それは才能と言われちゃ、どうしようもない)

仕事ばっかしてると
こういう人としての基本的な要素が分からなくなってくるのかも

そんな事を思った、午前診でした
さて、ご飯食べに行って来よ~

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生産者を明記するということ [日記]

二つの異なるスーパーでイチゴを買った
598円と498円
598円の方には、誰が何処で生産しているのかを明記している
一方、498円の方には明記されていない

美味しいのは498円のイチゴ
そこのスーパーはハズレが殆ど無い
何を買っても勝率8割を超える
スーパーの目利きが良いので、ハズレがないということ

598円の方は生産者を明記してあるが、酸っぱくて食べるのに苦労した
かと言って、その生産者のイチゴはもう食べたくないとは思わない
そのイチゴを仕入れているスーパーは、やっぱりその程度なんだと、そのスーパーを認識している

生産者の素性を知る事が出来るというのは本当に安心に繋がるのか?と言うことを、ちょっと疑問に感じた
生産者が誰であれ、その品物を仕入れる店の目利きを頼りにしてる所がある

治療院の話をすると
誰が施術してるのかという事よりも、その治療院に行けばハズレが無いという信用を得るほうが経営者としては都合が良い
いつでも質の高いスタッフを配置できるという事だ
看板には、そういう意味がある

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非量産 [日記]

脳梗塞の患者さんがこう言っていた
後遺症が辛くて身体が動かない
癌の方が楽だと思う
スイスイ歩けるし、って。

僕は脳梗塞にも癌にもなったことがないので、両者の苦痛は正直分からない
分からないけど、治療はしている。

脳梗塞やパーキンソンの患者さんを診ていて、思うことがある
確かに、そういう病気がベースにあるけど
それは一つの要因であって、その病気が全ての症状を支配している訳では無いように思う

鍼灸はそう言ったトータル面、大きな括りで診る事が得意な分野だと思う

で、今回言いたいのは鍼灸じゃなくてリハビリの話
僕は理学療法士を名乗ることが出来ないので、リハビリという言葉も厳密には使えない
そういうつもりで読んで頂きたいと思います

肩が上がらないという脳梗塞の患者さん
当然、麻痺があるので上がりにくいのは当然
当然、リハビリが必要な訳ですが。

リハビリと言っても
単に動かすように指示するだけでは勿論ダメで
動かしてやるだけでもダメ
掛からないエンジンを、無理矢理セルモーターを回そうとしても破損の原因となる
動かせないのには理由が必ずあるんだ
それを患者のやる気の無さのせいにするのは、宜しくない

余程の愛着が無い限りは、故障の多い車は買い替えた方が得策だけど
人の身体はそうは行かない
新車を買い直した方が安いと解っていても、そうは出来ないのが人の命
旧車を好んでいる人は余程の物好きか、道楽か
それこそ、代替できない感情が其処に在るから
だから、お好きな人はどうぞ!というスタンスになる

つまり、医療保険の適応の外にあるということ
個人の頑張りの限界を更に超えた所に、そういう局地が在る
介護保険っていう手もあるけど、僕が知る限りでは不評が多い

介護の現場にも、医療保険というのは十分に介入する余地がある
介護保険は医療ではないから、治療は出来ませんという話は良く聞く

矛盾がある

介護も医療もリハビリという要素を引き出せば、どっちも同じもんだと思っていた
それは制度上の違いこそあれど、やっている事は大して変わらん、そう思っていた

肩が上がらんのは、脳梗塞だからじゃない
そういう事もある
症状に対して的確な対処が出来ていない、と思っている
もしかすると
出来ていない…じゃなくて、しないという決断をしている、そうなのかもしれない

奇跡の復活、という話は
社会レベルでは到達し得ないのかもしれない
個々の頑張りに委ねられる
普通に仕事をするだけだったら、寝たきりの人は一生寝たきりのまんまなんだろうか、と少し気分が重たくなる
努力は報われる
しかし、並の努力では報われない

歩けない人が歩けないままでも、誰も咎めない
けれども、歩けない人が歩けるようになると、反感を買う事も何故か有ったりする
症状をあからさまに固定化するという事は、需要を安定化するという事でもある
それが効率的(何が?)。

その患者さんが良くなったからと言って御の字では喜べない
サービスとしては非効率的で、量産は出来ない
そもそも医療は非効率的なものなんだろうか?
効率を求めれば、医療法人は株式会社になるんだろうか?
そうすると、治療を受けられない患者さんも出てくるかもしれない、というかそうなるんだろう
医療はより良いものへと進歩し続けるけど、それに見合った報酬があるとは思えない
ハンドメイド、オーダーメイド
人の手というものは、何と非効率的なんだろうか

いや待て、君にはビジネスセンスが無いだけだよ!

あ~そうか、ナルホド(笑)

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長く通わないと、治らないのよ [日記]

と、有る患者さんは言う
そう言われると、逆に申し訳なく思う

一方で、数回で諦めてしまう患者さんもいる
多分、色んな所をハシゴしているんだろう
色んな所に行っては、効果が出ず、また変えては効果は出ず
粗方、この近隣の病院は全て行っている様子
もう県内には目ぼしい病院は無いので
今後は県外に行くんだろうか?
あそこには名医がいるとかなんとか
どこの病院に行っても、検査では異常なしと言われ
ガッカリして帰ってくる
異常がないのにガッカリするのは、症状が治まってないからなんだけど
その患者さんは
病気と闘う土俵にすら上がっていないか
或いは、病気と共に生きていくという覚悟も出来ていない
どちらかと言えば、自分にとって都合の良い解釈を提示してくれる人を探している感じ
結局、治るとか治らないとか、そういう次元ではないのかもしれない

治療を続けていくうちに
その人の生き方とか、人格とか
健康以外の情報がどんどん露呈されてくる
それを好しとしない患者さんが多いのは確か

鍼灸における病治しは
ある意味、真実を暴露するということ
その真実が、その患者さんにとって、掘り起こされて良かったのか、そうでなかったのか
と言うことは、思った以上に難しい課題なのかもしれない

かと言って、愚痴を溢されるだけの関係は
治療者患者の関係にもいずれ破綻が生じる

昔、先輩がこういう事を言っていたのをいつも思い出す

そういう患者は(縁を)切りなさい

患者さんが我儘だと言うことは、誰もが知っていること
でも、その我儘が通るかどうかは別の問題
病気に対する我儘はある程度聴けても
そうでない我儘は聞けない

話すことが仕事だと思っている鍼灸師は馬鹿だ
治すのが仕事
治せないから、話で誤魔化す
そう思えてならない、自分自身の事

どこまで突き詰めても
治療という概念は存在し得るはずだ

鍼灸は病を対象としている訳ではない
病名を確定出来ないから治療できないということは無い
逆に言えば、それこそが他の医療者から倦厭される事にも繋がるし
患者を説得できない、或いは不安にさせる要因にもなっているのかもしれない

長く通わないと、治らないのよ
というのはご尤もは話
でも、それを言い訳にしている自分には腹が立つ
かと言って、焦っては何にもならない
仕事は一つずつキッチリと確実に
ひとつひとつの症状をしっかり拾っていけば
どんなに難しいコトも何とかなるもんさ

人には寿命がある
永遠の時間はない
いつでもチャンスがある訳じゃない
だからこそ、今こそが好機なんだ

ゆっくりどっしり構えているように見せて
本当は、頭の中がフル回転
そういう仕事をしたいと思います

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言葉は鍼より重い [日記]

鍼の重量って、実はいくらか知らない
というより、カタログにも書いてなかった
持った時の重さで大体の太さは分かるけど
実際には重量というより
皮膚に掛かる圧力で判断しているんだろう

最近、昔のカルテを掘り返している
いついつはどういう事を書いていたのだろうか?と、そういうつもりだった
紙カルテは使い勝手が良いけれど、嵩張るのと管理に手間が掛かる
有る時から、電子化に努めた
スキャナーで読み取って、一枚ずつデータ化する
これが結構な重労働で、ちょっと疲れ気味

ある患者さんの抗がん剤治療に関する説明書が出てきた

今こういう状況で、こんな治療を受けることになりました、とか
そういった色んな情報を提供してくれる

その患者さんから先日mailが来た
抗がん剤治療もあまり効果が認められなかったので、手術することになりました、と。

文面には、絵文字や顔文字が多用されていた
普段はあまりそういう事をする人じゃない
僕の母親と同年代の女性
所々、不安が見え隠れしている、極々当たり前の事なんだけど
それを見せないように必死に頑張っている、ように思える

骨盤の痛みに対して腰痛症と診断されていた患者さんだった
後から思えば、骨盤の痛みは癌性疼痛だった

鍼灸整骨院勤務の時は、こういう経験はしなかったな~

この患者さんに対して、自分が出来ることって何だろうな~

癌そのものや癌性疼痛に対する鍼灸治療の保険適応は勿論ない
鍼で癌を治しますとは、よう言わない
活きる力を助けますとは言えるかもしれない

妙な希望は持たせられない
でも、少しの励ましは出来るかもしれない

鍼でもない、形もない
そんな口から出た言葉が少しでも元気づけられますように…

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結氷 [日記]

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寒~いです

茅蜩日記 落款

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Parkinson's disease(パーキンソン病)と鍼灸治療 20 [日記]

もう彼是1年ぐらい治療を続けている。
様々な症状を訴える。
不眠、頻尿、倦怠感、全身の硬直感。
意外と震戦というのは無い、薬によって抑えられているのだろうか。
転倒のリスクは常に存在するが、これも歩き方によってある程度は管理出来るレベルにある。
この数週間でかなりの改善を見せる。
基本に忠実に、ただただ基本的な事のおさらい。
歩くと言うことを徹底的に分析し、単純な動き方を反復練習する。
脚の挙げ方、出し方、荷重の掛け方
そう言った、一見独立した動きを組み立てて、歩行を再現する。

父親の仕事姿を、このまま一生見ることはないのだろうか? [日記]

親父と母親が結婚し、僕が生まれた時と同じ年齢になっている。
30歳を過ぎて、ようやく親父と酒を飲むようになった。
仕事を家庭に持ち込まないタイプの人だと思う。
勿論、仕事をしている姿は見たことがない。
というより、僕が男である以上、これから先も見ることはないと思う。
要するに、女子大の教員なので僕はその授業を受けることも無い。

親父を尊敬していると断言するには、余りにも軽率な気がして、なかなか言えない。
実はあんまり知らないのだ。
勿論、家庭を守り、子を育ててきた事はとてもすごい事だと思うが、仕事という事になると分からない。
分からないというのは、尊敬出来ないとかそう言った意味ではなくて、よく分からないから何とも言えないという感じ。

兄弟のような父子というものが時々羨ましく思う。
しかし一方では、近寄り難い雰囲気のある父親が丁度良い距離感だと思うこともある。

白衣の研究職では無いので、スーツで授業しているんだろう。

同業でもないし、特にライバル視する事もない。
だから超えるとか超えられないとか、そういった感覚は無い。
ただ、そこそこの年齢に達して、何となく意識するようになってきた。
それは、父性に対する憧れだろうか?


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 [日記]

この3日間は、とにかく混みます…渋滞が半端じゃない(T_T)
そう言った訳で、往診に難儀することもあるし、一番困るのはトイレかな…
オムツをしようと思いました(=_=)

恥ずかしくてあんまり書きたいことでもないけれども、ある意味、運が付いたと思って書いてみましょう。

実を言うと、漏らしてしまいました。
ちょっと調子が悪かった?という事もあるでしょうけれども、まぁ仕方なし。

結構な重ね着をしているので、臭いは漏れてないんだけれども、下着の中が気持ち悪いことこの上なし。
早く着替えて、次の往診へ…と行きたいところで、渋滞に嵌る。

ウ○チは漏れたけど、お陰で運は付いたかな…と。
年明け早々、自分なりにちょっとショックな出来事でした。
茅蜩日記 落款

予約制の是非 [日記]

知人の整骨院が、有る時予約制を導入した
すると患者が激減したそうだ
予約で時間を指定されると困るという事なのかな?
と言っても、患者さん自身が自分達で予約みたいな状態を作り出している事実はある
そう言った訳で、予約制導入後一ヶ月で元に戻したそうです

僕も勤めていた頃は、鍼灸治療を丁寧にしたくて(この丁寧って感覚が実は厄介な解釈になる)、院長に予約制の導入を希望したことがある
結果はダメで、整骨院という色味が強い職場だったので、急性外傷もあったりと予約管理するのに向いていないという返答だった
もちろんスタッフが充実していれば問題ないのかもしれないし、そんなに頻繁に外傷患者が来院する訳でもない
でも、ダメはダメで、自分で開業してから予約制を採用した

が、これもイマイチな側面がある
予約制を導入しても、時間にルーズな患者さんは少なくないし、予約の意味をはき違えている患者さんもいる

一方で、時間に忠実にしかも礼儀正しい患者さんにとっては、都合が良いのは当然で、そういう患者さんほど時間に厳しくそして本当に忙しい
自分の時間的価値と他人のそれを対等に評価している感がある

忙しいという患者さんほど、時間にルーズで、説明や指導も守らない
「忙しい」は心が亡と書く
心が亡くなると時間も無くなる

亡くなった心を取り戻す治療は出来ないものか…

午前中の診察及び夜診の一部の予約制を撤廃してみようと思っている
予約制を撤廃すれば、患者さんを十分に診れないという状況は必ず生まれる
だが実際は、時間を確保していても全く意に介さない患者さんは多い
じっくり診たいというのはこちらの希望と厚意?であって、必ずしも患者さんがそれを望んでいる訳でもなさそうだという結論に至っている

患者さんの都合は可能な限り考慮したいが、それが我儘になってしまうと、こちらとしても治療する気が起こらない
嫌々仕事するのも嫌なので、そうすることにした

色んなタイプの患者さんが居て、治療院のスタンスに共感する患者さんだけを集める或いは支持されるという、そういう事が良い事なのか悪い事なのか、結論が出ないでいた
タイプというより、最低限のマナーとかルールという時点で、受け皿から零れてしまっている感じ

僕の私見なので、反論意見は真摯に聴くつもりではいますが
そういう患者さんは矢張り、どこへ行ってもそういう応対を受けることになりそうな気がする

暇だからゆっくり診られますとういのは甚だ可笑しな論理だと思った
暇でゆっくり診ている時間ほど無駄な事はないと思った

今日は本当に暇だったので
昼からスーツを買いに行こうと目論んでいた
予約の患者さんが10時に来るはずだったが、37分遅刻してきた
最早、遅刻というレベルではない
正直腹が立ったし、拒否しようとも思った
結局、話を聴いていたら2時間も立っていた
言い訳を聞いていた訳じゃなく、身体の不調についてだ

どうしたら治るのかという説明は散々してきた
その論理にも揺るぎはない
ただし、それを患者さん自身が受けるかどうかという所で、それは副作用があるとかそういう話ではなくて、患者さんが本気になっているか、自分とちゃんと向き合う準備が出来ているかと言う話
要するに面倒臭いと言う理由でやる気になってない
そういう人と、そうじゃない人

話を聴くしか能の無い鍼灸師と言われても仕方が無いけど、聴いても聴いても堂々巡りで結論はいつも同じ
スーツはもちろん断念

自分でも自身を持って言うけど、かなり優遇されたサービスだと思う
と思っているだけで、実際は何の意味もないことかもしれないし、それが正しいとも言えない
でも、他所ではきっと同じように応対してくれないと思う
たぶん、そういう患者さんは煙たがられるだろうな
それが仕事で、そういう対応もしっかり…と、って言われても
そのために、仕事が滞っている事は事実
自分の何かに落度があって、それを改善すればどうにかなるかもしれないという可能性は、今や考えられない
見捨てるという言い方の方が正解かもしれないけど、見切りをつけると言いたい

全ての人を助けることは出来ない

患者さんの治る可能性は最大限尊重したいが、そもそも人としての…何だろう…
約束を守らないと言うことが病気であるとはやっぱり言えないのかもしれない
そう言った人としての在り方というものは鍼灸ではどうにもならないのかもしれない

患者という一律の括りでは、どうにも出来ないのだろうと言う事を考える今日この頃

僕の、これが限界なんだろうか?
もっと楽に仕事がしたい…
治療に疲れているのは僕なのだろうか…患者さんの方なんだろうか…

茅蜩日記 落款

鍉鍼(ていしん)の収納用のツールバッグのようなモノをオーダーしてみる [日記]

鍉鍼に用いられる金属は
金銀銅、ステンレス、アルミ、チタン等がある
硬い金属と柔らかい金属を同じ場所に容れていると、やっぱり傷がつくので
それらをどうにか愛護的に持ち運び出来ないかと思案している
1mmという細さでは裸では危ないが、3mm以上の太さなら、革に包んでも大丈夫だと思う

工具用のツールバッグで検索してみたが、あまり適当なモノが見つからない
値段は安いが適正に欠ける
鍉鍼も、自分の使い勝手があるので、よく使う物は決まっているが、ある程度本数が増えてきて収納に不便している

以前に登場したセミオーダーの鞄屋さんに、そういった希望を伝えてみようと思う
もう年末なので、来年の話になるかな~

鍼が効くんじゃなくて、人が鍼を効かせている [日記]

ツイッターより備忘録として
https://twitter.com/e88c85/status/278762452689252352

一部抜粋

この保険者(健保組合)の理屈では、「鍼灸治療はからだ全身を一つと考えて治療をするのであるから、柔整やマッサージのように症状が現れている部位や局所に施術するとは限らないからといいます。そうすると、鍼灸施術は全身に効能があり、そのため柔整の負傷部位が鍼灸施術を行う慢性の疾患と直接関係がなくても結果として柔整は鍼灸との併給になるから支給できない」というのでした。
鍼灸柔整のダブルライセンスを持つ同僚は多くいる
先輩の一人もそうだが、柔整と鍼灸の同時請求はしない方針だと言う
つまりは返戻になるからという理由だそうだ
僕自身は柔整のライセンスを持っていないので、実質的な利害はあまりない

そうすると、Q&A回答に見るとおり、国は鍼灸治療というものをからだ全身に効く全身治療主義を採っていないことが明白であるから、この健保組合の返戻理由は理由にならず誤っていると考えます。
鍼灸は全身に効く治療であることは僕自身、自信を持って言えるが、そこを保険適応の範囲内で賄うかについては疑問がある
そんなことをしていては、鍼灸師の仕事が成立しない
保険は保険、局所は局所で必要十分だと思っている
バイタルチェックは治療ではないから全身治療に含まれない
チェックはして当たり前
全身状態を考慮したとしても、全身に効くような治療をする必要はないと思っている



腰痛症だから腰に鍼をする
そういう短絡的な方針でも時々は効果がある
しかし、殆どは例外だ
病院や他の医療機関で治らなかった患者さんが来られる事が多い鍼灸院
鍼で治るというのではない
どういった理念でどこに鍼をしたかによって、更に詳しく言えば、どういう鍼をしたか?によって
効果に雲泥の差が出る
鍼を刺すだけなら素人でも覚えれば出来る
治せるかどうかは全くの別問題
鍼一本して、全身に効果が出るようにするには、余程勉強しなくちゃならない
そんな芸当が保険治療に依存している鍼灸師に出来るとは思ってない
誰もが容易に出来るようだとしたら…(保険適応するという意味で)、鍼灸はそれこそ眉唾モノになってしまうだろう


鍼が効くんじゃなくて、人が鍼を効かせている


神経痛なんていう漠然とした病名を持ってこられても
結局は、こちらで調べて治療をすることになる
痛いところに鍼して治まるようなら注射で治ってるはず
患者さんは、同意書という紙切れ一枚に何が書いてあるのか理解していない
保険治療が増えれば増えるほど、実は鍼灸師は経営的にも苦しくなる

そもそも神経痛なんていう病名は東洋医学には無い
西洋医学の範疇で診断されても、あまり役に立たないし、鍼灸の「シ」の字も出てこない
その診断名で治療をするというなら、注射で十分だと思う
そういう意味で、僕にとっての同意書は只の紙切れになる
というか足枷にすらなり得る

「この病気に対して施術しましょう、これだけ制約をつけるから、精一杯頑張ってね」

全身治療を前面に押し出すなら、そもそも同意書なんて何の意味も持たない
医師と行政の制約に挟まれた状態では、本来はそういった治療しか出来ない

同意書が欲しい鍼灸師はごまんと居ると思う

鍼灸療養費が年々増加傾向にあると言われるが
市役所に行けば、補助券もそうだが
役所の人には決まって感謝される
それは福祉という側面が色濃くあるからだと思う
儲けたかったら、誰もこんな仕事はしない
自分を崇高な人間だとは言えないが
少なくとも、こういう分野を担う人はボランティアでやっていると思う
そういう意味では、僕は奉仕の精神に欠けているのかもしれない



改めて言うけど
鍼が効いているんじゃない
鍼は効かせるものだ

道具は使って初めて道具になる
使わなければただの物
道具を道具足らしめているのは
人の知恵であり技術

だからこそ、治療が上手くいかなくて個人(自分)が非難されるのは構わないが
鍼灸医学が貶められるのは納得いかない

所謂、刺さない鍼。 [日記]

そんな鍼もあるの?とか、そういう事はさて置き…
注文して約2週間、ようやく届きました

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太さは1mm、長さはだいたい5cmぐらいです
先端が尖ってないので、普通は刺さりません
というか刺すための道具ではありません

まぁ、使い方はさて置き

届いたのはいいけど、なんか湾曲してる?(=_=;)
元々、撓(しな)りを考慮していないモノだから、曲がったら曲がりっ放し
ちっちゃな安全ピンぐらいの硬さと粘りはあるので、指先でちょっと曲げたぐらいじゃ曲がりません(実際にちょっと曲げようとしてみた)
完成時に、この品質ではちょっと納得行きません
「当社は手作りです」と頻りに言われましたが…

使っていく間に、ちょとした事で曲がったりすることはあるでしょう
そう思って、不意に曲がらないように安全な持ち運びをどうしようか思案していたところです
到着時には木箱に入っていますので当面はそれでも良かったかと思ってたのね

自分の感覚を乗せるための道具ですから、やっぱり曲がってるのは嫌なんで
返品することにしました

言いたいことはね
細いから曲がってるんですって言い訳じゃなくて(じゃあ太かったら真っ直ぐ作れるの?)
細いからこそ真っ直ぐに作ってくれってことです
梱包作業の時に曲がっちゃったのかな~
なんか妙に悲しい気分です(T_T)

自分に合った歩き方(リハビリ) [日記]

僕は、10年ぐらい前に右の足関節を骨折している
内果骨折
バイク事故で乗用車と衝突し、実感では5mほど放り飛ばされ、たぶん着地の際に骨が折れたんだと思います
結構昔の事で、瞬間の記憶は鮮明ではない

最近、近所のショッピングモールをウォーキングしている
往復で3~4kmぐらいでしょうか
かなり早足で歩きます
沢山のお客さんを追い越します

右の腓腹筋が弱っている事は以前から分かっていましたが、そのリハビリをしていません
患者さんにはアレコレ言ってる割には自分には甘い(苦笑)

実際に歩いてみて、相当意識しなければ鍛えたい箇所を選択して鍛えることは出来ない事が容易に理解できます
もちろん、放っておいても当分支障はないと思われます(当分というのが10年程です)
よって、今頃になって訳の分からない症状が出現している

歩き方というのは
例えば、レッスンジム等で講習を受けた場合
100人中10人程度に当てはまれば上々だと思っています
残りの90%の人に効果がなくても…という意味です

自分なりの歩き方、或いはそれに対する理解が必要になります

よく、踵から大股で…
という説明がなされることもありますが、果たしてこれは正しい論理でしょうか?
正解は分かりません

僕の場合、踵から大股に歩くと
大凡、弱っている箇所は全く使わずに歩く事が可能なようです
つまり、意図している効果は得られない
逆に、小股で爪先立ちで歩くと弱っている所が明らかになり、短時間で期待した症状が発現します
踵から大股であるくと、どうしても股関節の外側に微細な違和感を感じます
これは恐らく不要な代償動作と思われますので、可能な限り出ないように努めます

往診先でのリハビリでもそうですが
身体がリハビリに適応する十分な状態に至るまで、少し時間が掛かります
所謂整理体操みたいなものです
それから、実践的な運動療法が始まります
一通りそれが終わり、当然筋疲労が蓄積します
それらをケアして一連のプログラムが終了します
自分自身でやってみて、最短でも約40分を要します
ちなみに今は自分で鍼をしています
抜鍼するまでに後10分程度掛かるとして結局一時間は必要です
実際に歩いた時間は15分未満です

病院でリハビリを受けると、多分15分程度だと思います
と言っても、所謂マッサージが主で、実際に効果を認められるものというのは皆無だと思っています
これは患者さん自身に聞いた内容なので正確性に欠けますが、一応正しいとしましょう
そういう制度なので、仕方ありませんとしか言えません

最近になって、(患者さんの)老化ということを考えます
「足が痛いんです」
どうにかして下さいという事に対しては何とか出来ますが
永続的に痛くならないようになりたいと言われると、途方も無い時間を要します
よって、それは「老化です」と烙印を押して、痛くなったら通院するように説明する、これもセオリーだと思います
痛くない状態では処置の仕様がありません
もちろん、無い訳ではありませんが一般に保険適応外です
「そこは我慢して下さい」という事に躊躇いがなくなりました

リハビリというのは、患者さんや利用者さん自身の感覚に依存するところが大きく、言葉で理解させることが困難です
そもそも、全ての人に完全一致する方法というのは存在しないと思います
自分自身でやってみてそう思います

自分の右足の状態を振り返ると、10年放置してきた結果がコレで
いま苦しんでいます
靴の形が直ぐに崩れます
よく偏平足を問題に出されますが、足をいくら弄ったところで解決しないと思います

毎日、このプログラムを実践しようとすれば相当の努力が必要です
でも、それぐらいしなければ、意味が無いと思っています

状態が悪くなれば、それだけ回復に時間が掛かります
早期治療開始の原則が強く言われる理由がよく分かります
後手後手に回ると、それだけ費用も掛かり、生活や仕事に大きな支障が出ます
手遅れと言うことは無いと思いますが、モチベーションの問題ですよね…
先延ばしにすればするほど工程も増え、時間も掛かります

自分に合った歩き方というのは、誰かに用意してもらえるものではありません
自分で感じ、自分で理解しなければ役に立ちません
それを手助けするのが僕らの仕事ですが、その意図が伝わらないこともある
とても残念で、無力感に襲われる時もあります

「リハビリは自分でやらなきゃ意味がないのよ!」
という言葉をよく耳にしますし、実際自分でもよく口にしています
本当は、こんな事は言いたくない
なぜかって、それは自分で治す事が出来ないことを宣言しているから

リハビリが出来ないことを、患者さんや利用者さんの責任にして
自分は「やったってんねん」って言い方は如何にも傲慢
でも、そう言いたくなる時もあります
自分で自分の足を治そうと思って、挫折するぐらいですから

酒酔いのついでに書き殴ってみました

お喋りは必要か? [日記]

先日、同僚と飲みに行った時の話です
同僚は滑舌が良い
治療の最中にも口が止まることは無く、延々と喋り続ける事が出来る
話八割、手二割と自分で言っていました
しっかり治ってりゃ、お喋りであっても手があんまり動いてなくてもどっちでも良いとは思います
僕には出来ない芸当です

今日の往診の話です
いつも書くことですが、どうにも施術の最中にお口が止まらない患者さんが居る
話したいことが一杯あるんだろうとは思う
不思議な事にね、口が動くと手足も勝手に動くんです
これは病気とかそういう問題ではないと思ってて、要するにジェスチャーの一種だと考えています
アレとかコレを表現するときに、ついつい手足が動いてしまう
話に力が入ると自然と手足にも力が入ってる
そうやって、リハに集中できていない事が沢山ある

手術の時に意識があったら、少しは話してくれた方が落ち着くかもしれません
鍼の時も似たような状況かもしれません
痛みや施術に対する不安があるような状況だったら尚更だと思います

お話をしながら施術する事の難しさ
いつも気を張り詰めて治療する治療されるってのは、やや窮屈
短時間でも良いから一瞬治療に集中して欲しいと思うことがしばしば
全く関係の無い話とまでは言えなくても、今その話をする必要があるかどうかで言えば無いに一票
そうは言っても長い長いリハの道程
少しの息抜きも必要かな~って思ったり

時々思うことですが、問診の内容が全く役に立たないこと
患者さんが嘘をついている訳ではないんですが
自覚が無い時や、症状と状況が一致していないと勝手に思い込んでいる時
そういう時って大切な内容が抹消されてしまいます
患者さんの話を聞くことも重要ですが、そればかりに囚われてしまって
或いは患者さんの話を聴く事がイコール良い先生だと決めつけてしまうと
治らない事がある
こういう書き方をすると反感を買うかもしれませんが
患者さんの訴えには不要な情報が多い
これは訴えを無視するという意味ではなくて、治療に必要な情報か否かという事です

自分で得た所見に自信が無いと、どうしても話を聴く一辺倒になってしまいがちです

アポなし銀行マン その2 [日記]

「その件に関しては秘書を通して下さい」

一回ぐらいは言ってみたい台詞
そんなに偉くないので、言った事はありません
一応、院長ですが偉くはないんです
寧ろ、奴隷や下僕であるべきです
誰よりも率先して、誰よりも小さな仕事をする
それが院長の仕事だと思っています


午前診は往診で締めくくります
滑り込みで行きつけのラーメン屋さんに駆け込もうとした、その時
偶然というか確信犯というか
例の銀行マンに遭遇してしまいました(^_^;)
14:30closeのラーメン屋さんよ~サヨナラ~

銀行の人は、誰の口座にどれくらい預金があるのか、調べれば分かるんですよね
「○○さんの口座には○○円ほど預金がありました」
「使い道は決まっていますか?」
「定期に入れられては如何でしょうか?」
「資金繰りはどのようにされていますか?」
「融資等で力になれる事があれば、是非当銀行へ!」
そんな感じでした
きっと、ノルマが有るんでしょうけどね、僕を説得しても仕方が無いと思います

「その口座に入れてあるのは、今年度の納税分です」

だいたい毎年決まった納税額になってきたので、予めそれを預金しておきます
後になって、納税出来ないなんてことになったら大変ですもの
今年度の納税額は前年度のそれを基準にして算出されるそうです(あんまり詳しくない)

「一度、申告書を見せて頂ければ~」

単刀直入に、収入を把握して
どの程度融資出来るかを判断する材料にしたいんだそうです

「ちなみに、どのぐらい融資してもらえるんですか?」
と、ざっくり質問してみました
「場合によっては1000万円、通常200万円ぐらい」
だそうです

僕みたいな経済的に信用が無い人でも
預金を担保にすれば貸してくれるらしいですね
運転資金に困っているわけでもなし
当分大きなお金が必要な理由もなくて

もちろん欲しいものはあります
ただし、ローンを組むとか、融資を受けるっていうのは多分無理だと思います
資産価値が殆ど無いもの…を、買おうとしているからです
道楽…と、言われても言い返せませんが
まぁ、それが仕事の母体になるのだから、遊びとは言わせません
それに、そもそも融資を受ける前提で仕事をしてこなかったので、ひたすら貯金です

「社用車の購入などは如何ですか?」
「ディーラーと比べても金利はう~んと低く設定してあります(年1.3%?)」
車、いま持ってます
安価な自動車ですけど、国産のそれは耐久性も性能も必要十分です
フェラーリで往診なんて、騒音喧しくて在り得ないですからね(爆笑)
まぁ、軽自動車よりももうちょっと馬力のある車でも良いですけど、ローン組んでまで買うほどのもんじゃないし

何か始めたい事業があって、資金が必要で融資を願う?
或いは資金があれば事業を興せる?
融資を断るってのは、逆に野心が無さすぎ?
もし僕が社長だったら違った考え方をしてたのかな?

なんとなく、銀行マンのノルマに追われた感が前面に出てて、ちょっと胡散臭い
営業って難しいな~
お客様のために!って言うのは。

顧客(僕)のニーズを汲み取るのは難しい
もし仮に、僕が融資を必要としていたとしても、その根底にあるニーズを掬い上げられないようじゃ、その話受けられません

顧客も自覚していない必要性を創出すること
それって、僕にも当てはまる事だったりする
掘り起こすのと無理矢理押し付けるのは当然違う事
患者さんの主訴って案外そんなもんだったりする
本当に困ってる事って、意外と口にしてなかったりする
患者さんの心を丸裸にする事は難しい
開くより閉じさせる方が余程簡単
丸裸になった心はとても繊細で不用意に扱う事は出来ない
治療効果が最深部に到達するのは、まだまだ先になりそうだ
道のりは長いな~

アポなし銀行マン [日記]

先月ぐらいから、近所の信用金庫の営業マンが度々やって来ます
たぶん融資についてだと思いますが、鍼灸師の人で銀行から融資を受けている人ってどのくらい居るんでしょう?

仕事に直接関係ない事ですし、当然ですが診療中の手を止めてまで話を聞く理由は全くありませんので、丁重にお断りします

ちなみに当院は、従業員の給与も必要ありませんし、取り立てて大きな出費の予定もありませんので、融資は必要ないと思います

あと零細企業なので、それほど多くの融資を認めてくれるわけでもなく、借りたとしても全くメリットが思い浮かびません

実は、今日はとっても暇です
暇ですけど、施術中ですと言ってドアの外で追い返しました
今週は月末の事務作業があるので、これをとっとと終わらせて、ゆっくり過ごしたいと思います

寧ろ、アポなしで良かった
スケジュール合わせられると、ちょっと面倒だから

今日は雨です [日記]

雨ですので、自転車は断念
久しぶりの電車です
通勤混雑時間を少し外して

普段、往診以外にはあまり外出する機会がないので、気付きませんでしたが
雨の日の道路は結構、足元が濡れるんですね
撥水加工された靴が必要だと思いました

愛用していたブーツがあるんですが、兎に角重くて履くのにも時間が掛かって普段使いには余り適しません
ただし、しっかり足回りをホールドしてくれるので安定感は抜群です

靴を購入するときに困る事
そんなに大きい足のsizeではないと思うのですが、店頭に並んでいるsizeで気に入ったものが中々手に入りません
欲しいのは10.5inch(28.5cm)
こういう時って、通販が役に立ちます

靴がすぐにボロボロになる
これって、よく歩いているとも言えますが、履き方や脚の使い方に多少なりとも問題があるんですよね
特に、右の踵が直ぐにダメになります
もちろん、足関節の問題(骨折の既往歴有り)もあるでしょうが、もっと上の方に問題がありそうです
例えば股関節とか…

転職 [日記]

朝からパリッと白衣でキメて、いざ出陣
白衣というのはある種の戦闘服で、儀式のための服装です
儀式といっても、おまじないとかそう言った類のモノではなくて、作業を能率的かつ安全に行うためのモノです

白衣にも色々あって、身体を動かす必要がある時は、半袖で丈の短い白衣を用います
鍼灸師にあっては、やや長めの丈でも特に動作を制限するものではないと思います
ただし、鍼灸を行うだけなればそれでもいいですが、運動療法などを行う際には少し不具合が生じます
白衣を変更するというコトは、仕事の内容を制限するとともに、ある分野において特化する傾向があります

ジョブチェンジ

これは、昔のスクウェアというゲーム会社が制作していたFFというゲームのシステムです
職業を変更するシステムです
僕も今ではゲームはしませんが、小学生ぐらいまでは楽しんでいたかな
確か、FFⅢとFFⅤで、このシステムを採用していたと思います(それ以降は知りません)
職業、例えば、ナイト(騎士)とか魔法使いとか、召喚士とか、学者とか忍者とか…
使える武器や防具に制限が掛かったり、それぞれの職業でのみ修得できるスキルがあったり
見た目(服装)が変わる事が当時としては画期的だった
装備を変更しても、ステータス上の数値は変わっても、見た目が変わらないのでは新鮮味がありません

FFⅢでは、所謂最強の職業が賢者忍者だったと思います
賢者は全ての魔法を行使、召喚獣を使役する事が出来ます
忍者は全ての武具を装備することができたと思います
最終的には、初期設定であるたまねぎ剣士というジョブが最強という位置づけだったと思います

FFⅤでは、各々の職業に強く個性があり、全職業を網羅した後に、初期設定であるすっぴんというジョブに戻ります
その際に、今まで覚えたスキルを全部引き継ぐ事が出来ます

当時、FF(ファイナルダンタジー)ともう一つ、ドラクエ(ドラゴンクエスト)というゲームがあり、この二つが時代を席巻する二大RPGでした
僕はドラクエはあまり好みませんでした
なんとなくFFの方がスタイリッシュ(?)な感じで、大人っぽかった印象があります

ちなみに、鍼灸は魔法ではありませんので悪しからず(笑)

勤労感謝の日 [日記]

先日の事ですが

「世間様は休日なのに、先生は働いているんですねぇ、感謝感謝です」と言われたので

「勤労感謝の日は、働いている人に感謝…ではなくて、働いている人が働けることに感謝しましょうという日だから良いんですよ~」って、何だか知ったふうな事を言ってしまって、ちょっとバツが悪いような…

勤労感謝の日(ウィキペディア)
農業国家である日本は、古くから神々に五穀の収穫を祝う風習があった。また、その年の収穫物は国家としてもそれからの一年を養う大切な蓄えとなることから、収穫物に感謝する大事な行事として飛鳥時代の皇極天皇の時代に始まった新嘗祭(にいなめさい、しんじょうさい)の日が第二次世界大戦後のGHQの占領政策によって天皇行事・国事行為から切り離される形で改められたものが「勤労感謝の日」である。
もともとこういう意味であるから、強ち間違いではないと思っている。

勤労感謝の日(日本文化いろは辞典)
11月23日は「勤労を尊び、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう日」と1948年に法律で定められました。

誕生日というのも、生まれた事を祝ってもらってもいいけど、産んでも頂いた事に感謝する日であっても良いと思う

勤労感謝の日が、収穫物に感謝する特別な日なら、やっぱり作業も休止して一生懸命感謝した方がいいんだろうか?
それとも、日々変わらず常に感謝するのが良いのかな?
普段から思っていても、ついつい忘れてしまう事もあると思う

だから、こういう特別な日を制定して
自然に対する感謝と尊厳を忘れない
従業員への労い
そして、自分自身への感謝も忘れずに
明日も頑張りたいと思います

治りませんとは言いたくないんです! [日記]

老化と病気は違うんです

老化は治らないか?というより、そもそも病気ではないのだから、治るという表現が合ってない
では、老化によって発生した痛みは治らないのか?
となると、質問の意味が変わってくる

老化にも順調な老化とそうでない老化がある
建築物の爆破解体なんかを想像してもらうと解り易いかもしれない
形あるものはいつかは崩れる
崩れるということと老化を同義には出来ないかもしれないが
身体が崩壊して維持できなくなることを老化だとしよう
シナリオ通りに朽ちて、自然に風化する場合と
歪に捻じれて、踏ん張りながら何とか頑張って最終的に倒壊するような場合では違う
後者には多大な危険が伴う
建築物を爆破して解体するときに、ダイナマイトを設置する(専門外なので詳しくはないけど)
その設置場所が適切ではないと、被害が起こることもある
綺麗に壊すことは難しい
爆破解体がショーになるくらい、破壊というものは芸術性が宿ることもある
美しい崩壊というのは確実に存在する
破壊の後には再生が待っている
爆破の際に垂直方向に崩壊するようにダイナマイトを設置する
決して偏りがあってはならない
もし隣のビルに寄り掛かってしまえば、被害が及ぶ
緻密に計算された破壊は美しい
それは人の死に似ているのかもしれない
どんなアクシデントが起こるかは分からない

破壊されるビルは大抵老朽化が進んでいたり、新しく建築計画が立ち上がった時だろう
歴史的に重要な建築物というのもある
長年に渡りそれを維持出来ているのは、日頃からメンテナンスを怠らなかったからだ
丈夫な建築物は、構造や建築技法は元より、多大な人の手が掛かっている

いにしえを重んじるのは尊い事だ
只の物ではない、その歴史や風土、信仰など
様々な要因が折り重なって今に至る

人の死は、それらの因果を再認識して
解体していく作業
積み上げてきたものをゆっくりと丁寧に外していく作業
それは身体的なコトもそうだし、心の面においても同じコトが言える

老化の過程における治療というのは、少し特殊性が増す
良くなるというコトと同時に、解体も進めていく
良くなるというコトは、決して良くなるというコトではなく
全体として整っているというコトであって、悪い所をどうにかしてやろうという意味ではない
悪いところというのは、一方的なモノの見方であって
実際には表裏であり、表から見れば裏は裏だし、裏から見れば表は裏になる
要らなくなったモノ、要らなくなった場所、要らなくなったコト
全てを支え切れるほど、丈夫ではなくなってくる
個体として存続できる最低限の装い
だから、必要なものだけを吟味しなければならない
そうして洗練されたものはより美しく映ると思う

治りませんとは言いたくないです
しかし、時として治るという価値観は自然の摂理に反することもある
取り繕って体裁を保つよりは、潔く死と老化と向き合ってゆく方が案外健康かもしれません

鍼灸が東洋医学であり、病を殲滅する医学でない所以はそういう所にあるのかもしれない
争わないこと、和を重んじること
善も悪も、それぞれが個の一部であり本体であり
互いに向き合い、認め合い
不和を和に転換する医学
死は生の対称であり、死もまた生きるという事の一側面なのだと思います
生きる事と対面するための医学
死を享受するための医学
そう思います

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